認知症初期の記録②
この連載では、2021年2月8日に作成した介護認定調査用のメモを手がかりに、母・鮨子の認知症初期に起きていた出来事を、家族の視点から振り返ります。
鮨子のお金の使い方に違和感を覚え始めた頃、買い物の支払いにも少しずつ変化が現れていました。レジで代金を支払うとき、財布の中に小銭や千円札が入っていても、毎回のように一万円札を出すようになったのです。
お釣りはきちんと受け取っていたため、買い物自体ができなくなったわけではありません。当時の私は、「小銭を数えるのが面倒になったのかな」「大きなお札を出せば、間違いがなくて楽なのかもしれない」と考えていました。
しかし、一万円札を使うたびに財布の中には小銭が増えていきます。その小銭の扱い方や、鮨子が長年使い続けた財布の状態を見て、単に支払い方が変わっただけではないと感じるようになりました。
本文中の名前は仮名です。当時の記録をもとに、出来事の趣旨を変えない範囲で文章や時系列を整えています。
買い物では、迷わず一万円札を出す
鮨子は、買い物の金額にかかわらず、財布から一万円札を出して支払うことが増えていました。数百円の買い物でも、千円札や小銭を組み合わせるのではなく、一番大きなお札をそのまま渡します。
一万円札を出せば、店員さんがお釣りを計算して返してくれます。本人にとっては、小銭の種類や枚数を確認し、代金に合う組み合わせを考えるより、分かりやすくて安心できる方法だったのかもしれません。
鮨子自身は、特に困っている様子を見せていませんでした。いつもと同じように買い物をし、いつもと同じ財布を持っているため、家族がそばにいなければ、支払い方の変化には気づきにくかったと思います。
財布の中では、小銭だけが増えていった
大きなお札で支払う回数が増えると、当然ながらお釣りの小銭も増えていきます。鮨子の財布は、百円玉、十円玉、一円玉などで少しずつ重くなっていきました。
ところが、次の買い物でも、その小銭はほとんど使われません。また一万円札を出してお釣りを受け取るため、財布の中にはさらに小銭がたまります。
家へ行ったときに財布を見ると、ファスナーを閉めにくいほど小銭が入っていることもありました。それでも鮨子は、「小銭が多くて困る」とは言わず、そのまま使い続けていました。
破れた財布の内側へ、小銭が入り込んでいた
鮨子が長年使っていた財布は、かなり傷んでいました。小銭入れの内側が破れ、硬貨が本来入る場所とは別の隙間へ入り込むようになっていたのです。
外から見ると財布には小銭が少ないように見えても、内側の布の間には何枚もの硬貨が入り込んでいました。財布を動かすと音はしますが、どこに入っているのか本人には分からなかったのだと思います。
小銭が財布からこぼれることもありました。それでも鮨子は、財布が破れていることや、中に硬貨が入り込んでいることをあまり気にしていない様子でした。
財布の中に現金があるのに「お金がない」と言っていた前回の出来事と同じように、目の前にあるお金を把握することが難しくなっていたのかもしれません。
新しい財布を用意すれば解決すると思った
私は、財布が壊れているから小銭を管理できないのだと考えました。そこで、鮨子が使いやすそうな新しい財布を用意しました。
小銭入れが見やすく、紙幣も分けて入れられる財布です。古い財布の中身を一緒に移し、「これなら小銭も落ちないし、使いやすいよ」と説明しました。
そのとき鮨子は、新しい財布を特に嫌がりませんでした。私も、これで財布の問題は一つ解決したと思っていました。
次に行くと、古い財布へ戻っていた
ところが、次に実家へ行ったとき、鮨子が使っていたのは以前の破れた財布でした。新しい財布は使われず、きれいなままタンスの中へしまわれていました。
「新しい財布はどうしたの」と聞いても、鮨子はうまく答えられません。新しい財布を買ったことを覚えていなかったのか、使い方が分からなかったのか、それとも古い財布の方が安心できたのか、当時の私には判断できませんでした。
何度か新しい財布を使うように勧めても、しばらくすると元の財布へ戻っています。結局、鮨子にとっては、破れていても長年使った財布の方が、自分の財布として認識しやすかったのだと思います。
家族にとって便利な物が、本人にも使いやすいとは限らない
家族から見れば、新しくて壊れていない財布の方が使いやすいのは当然に思えます。しかし本人にとっては、カードや小銭を入れる場所、手触り、色、開け方など、すべてが変わります。
鮨子は新しい物に慣れることが少しずつ難しくなり、使い慣れた物を手元に置くことで安心していたのかもしれません。古い財布へ戻る姿を見て、道具を新しくすれば問題が解決するとは限らないことを知りました。
もし当時へ戻れるなら、いきなり財布を交換するのではなく、古い財布と似た形や色の物を一緒に選び、しばらく二つを並べて使ってみると思います。本人がどの部分を頼りに財布を認識しているのか、もう少し丁寧に確認することも必要でした。
計算が面倒だったのか、難しくなっていたのか
一万円札を出すこと自体は、認知症ではない人にもある行動です。小銭を持ちたくない、後ろに人が並んでいて焦った、細かい金額を数えるのが面倒だったということも考えられます。
鮨子の場合は、それだけではありませんでした。財布の小銭が増え続ける、破れた部分に硬貨が入り込んでも気づかない、新しい財布を用意しても使えないといった変化が重なっていました。
今振り返ると、硬貨の種類や枚数を見分け、必要な金額を組み合わせることが難しくなり始めていた可能性があります。ただし、当時の本人が何を感じ、どの段階でつまずいていたのかを、今から正確に確かめることはできません。
当時、家族が行っていたこと
財布の小銭が増えていることに気づいたときは、鮨子と一緒に中身を整理しました。本人の財布なので、勝手に捨てたり持ち去ったりせず、使いやすい枚数だけ残すようにしました。
買い物へ同行できるときは、支払いの様子も確認しました。ただし、レジの前で「小銭があるでしょう」と強く指摘すると、本人を焦らせたり恥ずかしい思いをさせたりするため、必要以上に口を出さないようにしました。
一万円札を使うことそのものを禁止するのではなく、財布の中身と手持ちの現金を家族が定期的に確認することの方が現実的でした。
支払い方の変化に気づいたときの確認事項
家族の支払い方に以前との違いを感じた場合は、本人を試したり責めたりするのではなく、実際にどの部分で困っているのかを確認します。
- 紙幣と硬貨の種類を見分けられているか
- 商品の金額と手持ちのお金を結びつけられているか
- お釣りを受け取ったことを覚えているか
- 財布の中身が多すぎて探しにくくなっていないか
- 財布や小銭入れが壊れていないか
- 視力や手指の動かしにくさが影響していないか
- 同じ商品を何度も購入していないか
- 支払い以外の計算や手続きでも変化がないか
出来事の日付、購入した物、支払い方、本人の言葉などを短く記録しておくと、受診や介護認定調査の際にも状況を説明しやすくなります。
今振り返って思うこと
当時の私は、一万円札で支払うことよりも、破れた財布を使っていることが問題だと考えていました。そのため、新しい財布に替えれば小銭を整理でき、以前のように使えると思っていたのです。
しかし、本当の変化は財布そのものではなく、財布の中身を把握し、必要な金額を選び、新しい道具の使い方に慣れることが難しくなっていた点にあったのかもしれません。
家族が良かれと思って新しい物を用意しても、本人には使い慣れた古い物の方が安心できます。便利さだけで交換するのではなく、本人が長年どのように使ってきたかを尊重しながら、必要な部分だけを支えることが大切だったと感じています。
前回の記録
第1話では、財布に現金が入っているのに「お金がない」と言い、見つけた一万円札を日和鷹へ渡そうとした鮨子について振り返っています。
次回の記録
次回は、長年使っている手提げ袋の中へ、通帳、印鑑、自宅マンションの権利書まで入れ、肌身離さず持ち歩くようになった鮨子について振り返ります。
登場人物について
鮨子、日和鷹、日和嫁、Gさんについては、次の記事で紹介しています。


