この記事は、2021年5月8日に残したメモをもとに、当時の出来事や家族の気持ちを振り返って書いています。本文では、母を「鮨子」、長男である私を「日和鷹」、母の小学生時代からの友人を「祥子さん(仮名)」として記載しています。
2021年5月8日、実家の電話に、私の知らない女性から連絡がありました。
「鮨子さんの昔からの友人です」という話でしたが、私はその名前を一度も聞いたことがありませんでした。
当時は母の認知症が進み、金銭や電話をめぐって心配な出来事も増えていた時期です。
そのため最初は、「本当に母の知り合いなのだろうか」「何かの勧誘や詐欺ではないだろうか」と警戒しました。
「小学生の頃からの友達なんです」
電話をくれた女性を、ここでは祥子さんとします。
祥子さんは、自分が母とどのように知り合ったのか、昔どんなことがあったのかを私に話してくれました。
聞いているうちに、どうやら本当に母の昔からの友人らしいことが分かってきました。
小学生の頃から付き合いがあったというので、私が生まれるよりずっと前から母を知っている人です。
私は祥子さんに、母には認知症の症状があり、以前のように物事を覚えていられなくなっていることを伝えました。
また、何かあったときに連絡が取れるよう、私の電話番号も伝えました。
祥子さんは、その後も母へ電話をしてくれた
その後、祥子さんは何度か母へ電話をしてくれていたようです。
昔からの友人ですから、母にとっても本来なら懐かしい相手だったはずです。
ところが、母本人に聞いてみても、祥子さんと話したことを覚えていませんでした。
電話をしているその瞬間には普通に会話をしていたのかもしれません。
けれど、電話を切った後には、その出来事自体が母の中から消えてしまっていました。
長い年月を一緒に過ごしてきた友人から電話をもらっても、その電話を受けたこと自体を覚えていない。
それを知ったとき、認知症は記憶だけでなく、人と人とのつながりまで少しずつ薄くしていくのだと感じました。
せめて一度、会わせてあげたいと思った
祥子さんからは、時々「鮨子さんに会いたい」と言われるようになりました。
それなら、私が母を連れていけばいい。
私はそう考え、実際に二人を会わせる話も進めました。
ところが、祥子さん自身も高齢になっており、車椅子を利用していました。
こちらはこちらで母の通院や介護サービスの日程が増えていたため、なかなかタイミングが合いませんでした。
「また今度にしよう」
そんな状態のまま、結局、二人を会わせることはできませんでした。
今になって思う「もっと時間を作ればよかった」
当時の私は、母の介護に追われていました。
病院の予定を管理し、電話に対応し、お金を管理し、介護サービスとのやり取りをする。
毎日のように新しい問題が起こり、「今日をどう乗り切るか」を考えるだけで精一杯だったように思います。
その中では、昔の友人に会わせることは、どうしても優先順位が低くなってしまいました。
しかし今振り返ると、もう少し積極的に時間を作って、会いに連れて行ってあげればよかったと思います。
たとえ母が翌日には忘れてしまったとしても、その場で笑ったり、懐かしい気持ちになったりする時間は作れたかもしれません。
祥子さんにとっても、長年の友人と直接顔を合わせる大切な機会になったはずです。
ほかの昔の友人からも留守番電話が残っていた
母の昔の友人から連絡があったのは、祥子さんだけではありませんでした。
実家の留守番電話には、私の知らない人からメッセージが残っていることがありました。
最初は、
「私よ、○○よ。すっちゃん、元気?」
というような、ごく普通の電話でした。
同じ人から何度も留守番電話が入っていました。
そして、あるとき残されたメッセージは、それまでとは少し違っていました。
「そろそろダメかも。すっちゃんは元気で暮らしてね」
少し涙声だったことを覚えています。
その方も高齢で、自分の身体や先のことを感じながら電話をくれたのだと思います。
母は身体だけを見れば比較的元気でした。
けれど、その友人が誰だったのかを、もう思い出すことができませんでした。
家族の知らない「母の人生」がそこにあった
子どもである私は、母の人生をかなり知っているつもりでいました。
しかし、考えてみれば当然のことですが、私が知っているのは母の人生の一部分にすぎません。
私が生まれるずっと前に出会った人。
小学校時代を一緒に過ごした人。
若い頃に遊んだ人。
子育てをしながら付き合ってきた人。
母には、私の知らない人間関係が何十年分もありました。
電話をくれた人たちは、私にとっては「知らない人」でも、母にとっては長い人生を共有した大切な人だったのだと思います。
認知症によって母自身がその関係を説明できなくなると、家族が知らなければ、そのつながりは簡単に途切れてしまいます。
「覚えていないから会っても意味がない」ではなかった
当時は、私自身もどこかで「会っても母はすぐ忘れてしまうだろう」と考えていた部分があったのかもしれません。
しかし、今は少し違うように考えています。
翌日に覚えているかどうかだけが、その時間の価値ではありません。
昔の友人と会った瞬間に笑う。
声を聞いて安心する。
昔話を聞いて、その場では何かを思い出す。
たとえ後から忘れてしまっても、その時間に本人が感じた安心や楽しさまで、すべて無意味になるわけではありません。
だからこそ、あのとき「また今度」ではなく、多少無理をしてでも祥子さんと会わせてあげればよかった。
これは、今でも少し心に残っている後悔です。
昔の友人から連絡があったら、家族が橋渡しをする
母の経験から感じたのは、認知症が進んできたら、昔からの友人との関係にも家族の助けが必要になることがあるということです。
本人が友人の名前を忘れてしまっていても、すぐに「知らない人だから」と関係を切る必要はありません。
相手から昔の話を聞いて、本当に知り合いなのかを確認する。
母に認知症があることを、必要な範囲で相手へ伝える。
本人だけでは約束を覚えていられないので、家族が日程を調整する。
電話だけでは難しくなったら、会える機会を作る。
家族が少し間に入ることで、それまで何十年も続いてきた人間関係を、もう少し長く残せたのかもしれません。
認知症で失われるのは、物の名前や予定だけではなかった
認知症の症状というと、「物を忘れる」「同じことを何度も聞く」といった変化が目につきます。
私自身も、当時は病院の日程、財布、通帳、スマホ、探し物など、目の前で起きる問題への対応ばかり考えていました。
けれど、その裏ではもっと静かに失われているものがありました。
昔の友人の顔や名前。
何十年も積み重ねてきた思い出。
本人にしか分からない人とのつながり。
母が友人を覚えていない姿を見て、私は認知症という病気のつらさを改めて感じました。
そして、本人が思い出せなくなったときこそ、周囲の人がその人生の一部をつないであげることも、家族にできることの一つだったのだと思います。
この記事について
この記事は、2021年当時に残した介護メモと家族の記憶をもとにした記録です。登場人物の名前は個人が特定されないよう仮名に変更し、一部の表現もプライバシーに配慮して整理しています。
次回は、1週間同じ服を着ていた母
2021年7月になると、母の生活面でさらに大きな変化が見えてきました。
服や下着をタンスから探せなくなり、自分から着替えることが少なくなりました。
玄関に設置していた見守りカメラを確認すると、1週間にわたって同じ服を着ていたことも分かりました。
入浴の回数も減り、毎日の生活そのものに家族や介護サービスの手助けが必要になり始めます。
次回は、「忘れる」だけではなく、「着替える」「風呂に入る」といった日常生活そのものが難しくなってきた頃を振り返ります。
前回の記録
前回は、母から聞いた親戚への400万円の借入相談と、それをきっかけに金銭面への不安が強くなっていった時期を振り返りました。


